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昔日和-他愛もないこと-

思ったことや過去にあったことを、だらだらと書いてあります。どちらかというと、楽しいことではないです。近頃は精神安定のための、愚痴の捌け口になっております。

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とうとう

先日、父と決定的に決裂した。

しばらくこなかった電話がきて、出た瞬間、
「あんたたち、どうなってんの?」
とえらく不満げな声。
「お正月も来ないし、何も言ってこないのはどういうわけ?」
お正月に行くなんて一言も言ってないし、言われてもいない。
なんのこっちゃと思っていると、いつもの怒り文句が始まった。
黙って聞いていると、さんざん怒鳴り散らした後に、
「お母さんなんて、朝からずっとソファーでひっくり返ってるよ。」
そんなのいつものことじゃんと内心思っていた。
母が自分よりも遅くまで寝ていることが気に入らないらしく、
いつも怒って母を起こすようだ。
なので、母はソファーでうたた寝をすることがよくある。
今回もそれを言っているのだろうと思っていたのだが、
実は違っていた。
さんざん文句を言った後、
「で、どうなの?」
と言われたので、
「どうなのって、コロナが流行ってるから行かないよ。」
と答えた。
「もうお前には頼まない!」
そう言い捨てて父は電話を切った。
何も頼まれてないし。
この人おかしいと、心の底から思った。

後に、主人の母に聞いたところによると、
このとき、本当に母は危なかったそうだ。
何度呼んでも応答はなく、本当にこのまま死んでしまうかと思ったそうだ。
実際は次の日の朝には、復活していたそうなのだが。
それを聞いたとき、ただ一言、
「お母さんの様子がおかしいから、ちょっと来て。」
と言えば済むことなのに、感情で文句を言って、
肝心なことは何も言わないことが信じられないし、理解不能だと思った。
次の日復活したからいいものの、もし死んでしまったら、
もし、脳梗塞などになってて寝たきりになってしまったら、
どうするつもりだったんだろう。

先日、再び電話が来て、また私の弱点と言うべきことをついてきた。
そこをつけば、私が言うことをきくだろうとふんでのことだ。
嫌な奴だ。
本当に親なのか。
私を一人の人間とはみていない。
単なる道具としかみていない証拠だ。
でも、その弱点は、本当は弱点じゃない。
本当のことを忘れているだけだ。
自分達、特に母が言ったことをすっかり忘れてしまったようだ。
それを指摘すると、
「嘘をつけ!そんなこと言うはずがないだろう!」
今度は嘘つき呼ばわりだ。
「お母さんが言ったんだよ。」
「あの馬鹿と俺は違う!」
『あの馬鹿』?
自分の女房を馬鹿呼ばわりか。
家事も育児も、全部一人でこなして、
自分が病気になったとき、
病院に毎日通ってくれた女房を馬鹿呼ばわりかよ。
その間、父は怒鳴りっぱなしだった。
「もういい!うるさい!うるさい!!」
と言って、電話を切った。

その後、母が家に来た。
「お母さん、そんなこと言わないと思うけど。」
それを言いに来たのか。
父に相当問い詰められたのだろう。
「言ったんだよ。
だけどそれじゃまずいからって、こうしようって、こっちが提案して、
今のように決まったんだよ。」
「そうだっけ?」
「そうだよ。」
母は黙る。
「お父さん、なんなの?あれ。
お母さん、よく頭おかしくならないね。」
と言うと、
「だからさ、お母さんも、もう一人で実家へ帰ろうと思って。
一人で畑でもやって、暮らそうと思ってさ。」
と、母が言ったとき、父が来る。
最初から喧嘩腰だ。
こちらも怒りが頂点まで達している。
父の腕を掴んで、椅子に座らせる。
何故かというと、立たせておくと、すぐに殴るからだ。
殴られたら殴り返す気ではいたが、
ただ、私の場合、非常に目が悪く、殴られると失明する可能性が高いので、
それはできれば避けたかった。
また電話のときの話がむしかえされて、また同じ説明を繰り返す。
「嘘つけ!」
また嘘つき呼ばわりか。
「お母さんがそう言ったんだよ。」
「馬鹿!俺とこいつは違う!」
今まではずっと何を言われても我慢してきた。
どんな場面でも我慢してきた。
この三人の家族で、父はいつも最優先だった。
誰も、何も言わなかった。
何か嫌な事を言われても我慢してきた。
殴られても、ぶたれても我慢してきた。
もう限界だ。
お前なんて、もう親でもなんでもない!
「馬鹿?馬鹿はお前だ。」
目を見て言ってやった。
「いつもいつも感情にまかせて物を言って。
この前だって、お母さん死にそうだったのに、
肝心なこと、何も言わなかったじゃないか。
私には何も通じなかったぞ。」
それを聞いたとき、あろうことかこう言ったのだ。
「死んでないじゃないか!
これが死ぬはずないじゃないか!
今だってここまで歩いて来たんだぞ!」
「今じゃないよ。
この間電話してきたとき、お母さん、死にそうだったんでしょ?
なのに、文句ばっかり言って。
『お母さんの様子がおかしいから、ちょっと来て。』
って、言えば済むことだったのに。
お母さん、本当に死んじゃったら、どうする気だったの?」
「死んでないじゃないか!」
だめだ、こいつ。

私への嫌がらせに、マスクをとって「はーっ」と息を吹きかけるのを見て、
コロナが流行ってるから、親に会いに来ないのは、
我々がコロナをうつされたくないからだ、と勝手に思い込んでいることがわかった。
逆だよ。
我々は、二人とも医療関係者だから、コロナに感染している場合があるからで、
誰かにうつしたくないから、親の家だけじゃなく、
仕事以外どこへも行かないでいるのに。
買い物も車に乗れる主人が週1で行くので、コロナが流行ってから
仕事と本当に必要なとき以外、私は外には出てません。
何度言っても、わかろうとしないので、本当に嫌になる。
それで、全然来ないと文句言われても。
「別にうつされても、もう歳だし。」
と、両親は言うが、
もしコロナに感染したら、知らずに外に出て、誰かにうつすかもしれない、とか、
重症化して、入院することになって、
すごく苦しむかもしれないとか、考えたことないのかね?
ないんだろうな。
そうなったら、同じ医療従事者の方々に、多大なるご迷惑がかかるので、
それも避けたいという、我々の気持ちを慮ってくれなどと言っても、無駄だよね。
両親の周りに感染者がいないということから、
遠い世界のことのように思ってるんだろうな。

幸が四つ足で立てなくなって、
家では床にはマットを全面に敷いているのだが、親の家はフローリングのため、
幸を連れていけなくなった。
フローリングの上では、滑ってしまい、もうお座りすることもできないのだ。
そして、発症から一年位で死ぬと宣告されているのだが、
5月になれば2年生きていることになり、
いつ死んでもおかしくない状態なので、なるべくそばにいてやりたいと思っている。
それも話してあるのだが、俺様一番の奴には理解できないらしい。


私に『馬鹿』と言われて、更にヒートアップして、
母を指さして、
「この馬鹿が!この馬鹿が!」
と、まだ何度も言うので、
「馬鹿はお前の方だって言ってるだろうっ!
全部一人で何でもしてきたお母さんを『馬鹿』とはなんだ!
おまけに、この前何て言った?『あんな女』って言ったんだぞ!
なんだ?『あんな女』って、
お前が病気になったときも、毎日病院に通ったお母さんを、『あんな女』?
心底軽蔑した。
馬鹿はお前だ!ばーかばーか!」
もう『お父さん』なんて呼べなかった
人でもなかった。
人外だった。
「お前」というのも嫌だった。
怒鳴り散らす人外を押して、
「もう帰れ!二度と来るな!」
と言って玄関まで押し返した。
それを感じて、幸が足を引きずりながら追い掛けて来た。
ふんふん鳴きながら、追い掛ける幸の鼻面を、
あの男は、「この馬鹿犬!」と言いながら蹴ったのだった。
もう許せなかった。
「幸には関係ないでしょう!早く出て行け!」
と怒鳴って外へ出させた。
母は、人外の後から少し笑って手を振った。
なんで、あんな人外と一緒にいられるんだろう。
なんで『この馬鹿』とか『あんな女』とか蔑まれても、
一緒に帰ることができるんだろう。
私には理解できない。

幸は。
あの人外と私の間にずっといた。
同じポーズで間にいた。
頑固にそこから動かなかった。
帰った後で、
「ごめんね。」
と謝った。
心静かにさせておいてやりたいのに、ごめんね。
あんなのを、鼻を鳴らして追い掛けていかなくてもいいんだよ。
そして、ありがとね、と言った。
ありがとね。

それを聞いた主人が、私の実家に出掛けたのは、次の日だった。





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戦争

日本からウクライナに義勇軍として70人が行きたいと言ってるという記事を見た。
私は、それがご本人の正義であり、意志ならば反対はしないし、止めもしない。
だが、主人は行かない方がいいと言う。
もしかしたら洗脳されてるかもしれない、
情報操作されて戦地に送り出されたかもしれないロシアの兵を殺すのには反対だと。
戦争なんだよ?
自分の国を護るために戦おうとしてるウクライナの国民の手助けがしたいと、
70人の人達は言ってるんだよ?
と言うと、それで殺しあいをするのは間違ってる、と。
じゃあ、どうすればいいの?と問うと、
「逃げればいい。」
逃げたら国が盗られちゃうんだよ?
それが嫌だから、戦うんでしょ?
「周りの国に逃げて、そこで暮らせばいい。」
戦争や内戦で逃げて来た余所の国の国民は、どう扱われてるよ?
正当に、真っ当に扱われている人もいれば、
難民キャンプやらなんやらに留まって、
不自由に暮らしてる人だっている。
日本沈没後の日本人が、世界に散らばって移住して、その後どうなったよ!
まだ読んでないけどさ。
何を言っても、逃げた方がいい、殺し合いは止めた方がいい。
頑なにそれを主張するので、らしくないし、何でだろう?と思って聞いていると、
第二次世界大戦の話がでてきた。
「アメリカは、日本より人道的だったよ。
ちゃんと戦闘機にさえ危なくなったら脱出できるようになってたけど、
日本は、特攻じゃないか。
死にたくないのに、みんな死ななきゃいけなかった。」
そりゃ、自国の国民に対してだけだよ。
アメリカからしたら、日本人なんてたぶん虫と一緒だったよ。
今は民間人が死ねばわーわー騒がれるけど、本土に来て、
焼夷弾や機銃掃射で、どんだけ一般の日本人が殺されたよ?
挙げ句の果てには、核を二回も落として、
「戦争を早く終わらせるために落とした。」
って、どの口が言うんだよ!今もしゃーしゃーと言ってるんだよ!
どんだけ死んだよ?
この国が、どんだけぐしゃぐしゃになったよ?
「アメリカだって、本当にこれでいいのかって悩んでたじゃないか!
一緒に観たでしょう?
核だって、本当に落としてもいいのかって、悩んで。」
悩む位なら、やめときゃよかったじゃん。
主人には言わなかったけど、核を落としたのだって、
日本人を救いたかったわけじゃなくて、
この戦争で、自国の国民が、これ以上戦死しなくていいように、だったじゃないか。
戦争になったら、相手の国の人間なんて、虫と同じだよ。
向かってくるのは、ゾンビと同じ。
やらなきゃやられる。
日本人だって、きっとそう思ってた。
アメリカ人だって、全員がそう思ってたわけじゃないと思う。
それは、よくわかってる。
「もう、戦争で誰も死んで欲しくないんだよ。」
それは、そうだろう。
それで済む方法があるのなら、そちらを選ぶだろう。
「だから、逃げればいい。」
国が無くなっても?
「うん。ここは自分の土地って、なんで思ってるの?
勝手にそう決めただけでしょう?
俺は今まで住んだ所に愛着はないし、どこに行っても平気。」
と言う。
それは、普通に暮らせればの話だろうと思う。
わからん。
戦争で、国を盗られてしまうということが、何を意味するか、
深く考えた結果なんだろうか。
「国の頭が替わって、返してくれるかもしれないし。
先のことはどうなるかわからないじゃない。」
返ってくるわけないじゃん!
どんなに頭が替わったって、返すわけないじゃんか。
北方領土、返ってきたか?
あれから、どんだけ経ったよ?
頭が何人替わったよ?
未だに返ってこないじゃんか。
なんで、そんなに国を盗られてまでも逃げることに固執するんだろう?
わからん。
確かに、人命を守るという観点からすると、それは正しいとは思うが。

「艦これを始めるまで、第二次世界大戦のことなんて、何も考えなかった。」
と、主人は言った。
「艦これを始めてから、その艦の運命を知ることによって、
戦争で誰も死んで欲しくないと、思った。」
なるほど、それか。
主人は、艦の運命だけではなく、第二次世界大戦における出来事もYouTubeでよく観ている。
それはいいことだと思う。
が、なにせ、日本側の視点での動画じゃないんだよね。
日本はいつも敵国で、あの動画が、日本向けに作られたのじゃ無かったとしたら、
「迷った」
とか
「悩んだ」
とか、言うよね。
それを鵜呑みにして欲しくないとも思う。
日本人が、いつも立派かと言えば、そんなことはありえないし、
大陸で何をしてきたか、それを正当化する気もない。
ただ、表にはでてこないようだが、同じことをされてきたという事実もある。
私には、何が本当なのかは、わからない。

私の父方の祖父は、戦争で亡くなっている。
だからといって、アメリカを恨むという思いは全くない。
ただ、それで卑屈になったり、嫌いになったりするのは違うと思う。
今初めて、祖父を殺した爆撃機を操縦していた人のことを考えた。
迷いは、無かっただろうと思う。
これは戦争だ、と。
自分の爆撃機が、落とされる心配は無く、
ただただ爆弾を落として、日本人を殺す。
誰も刃向かってはこない。
どんなことを思っていたのだろう。

父とだいぶ歳の離れた伯父の体には、未だに機銃掃射されたときの破片が残ってるそうだ。
そのとき一緒にいた友人達は、皆亡くなったそうだ。
戦闘機が見えたとき、友人達は一斉に違う方向へ駆けだしたが、
伯父は、わざと違う方へ走ったそうだ。
そのおかげで、死ぬことはなかった。
楽しかったか?
逃げる人間を撃つのは?
怒りを感じたわけではない。
ただ、訊いてみたいと思っただけ。

撃った人は、何も悩まなかったのか。
すっかり忘れて幸せに死んでいったのか。
もう、知る由もないし、
本人も誰を殺したかなんて、わからないだろう。


夕べは、主人と言い争いをして、
結局、相容れるところもなく、結論も出ず、論争は終わった。








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2月から3月にかけての恒例行事

確定申告が終わった。
ずーーっと前からの恒例行事なのだ。
2月~3月にかけては確定申告でー
4月~6月にかけては、住民税とかーそんなものの支払いの時期でー
人間は生きてるだけでお金がかかるのね。
当たり前だけど。

以前より職場からいただくお金は半分以下になってしまったのだが、
半分以下に働く時間を減らしたので、それもまた当たり前で
ただ、この額なのに、なぜか扶養に入れない。
職場のお姉さん方は、ちゃんと扶養の中で計算して働いている。
私もそうしようと思うのだが、突然残業になったりすると、
それも難しい。

来年、ずっとお世話になった先生が引退するそうなので、
それを機に、扶養に入れる時間帯内で働くように交渉しようとは思っている。


昨年までは、書類を税務署まで直接持って行ったのだが、
今年はe-taxにした。
スマホは、メールと電話しか使わないので、手間取った手間取った(T-T)
何度もやり直し(T-T)
集中してやらないとまずいと思ってパソコンに向かうと、
洗濯機がお風呂の水が少なくなって吸えないので、なんとかしろと騒いだり、
コーギー幸湖さんが、水を飲みたいと匍匐前進してケージに向かったり、
ちなみに幸湖さんは、病で四つ足で立ち上がれないので、
匍匐前進で進みます。
このときは水でしたが、トイレの場合もあるので、
察知し次第、車椅子代わりをしないといけません。
主人はわりとほったらかしなので、
幸湖さん、間に合わず途中で大や小をしてしまうことがあります。
大は片付けるの楽なんだけど、小をされてしまうとね(^0^;)
この頃は主人も、慌てて車椅子になってます。
前足は健在なので、早いこと早いこと。
ケージ内まで付き添った後、車椅子は再びパソコンの前に座ります。
再び、集中しようとすると、
「ここから出せ。」
という要求の音・・・・
車椅子は、再びお迎えに行き、幸湖さんの行きたい場所までお付き合いします。
そして
「ふう。」
と言いながらパソコンの前に座ると、
「どこまでいったんだっけ?」
となります。

お子さんや猫さんのいる御家庭で、リモートが難しいわけがよくわかりました。
これで書類が山ほどあったら、とっても無理!

入力し終わって、昨年の書類と見比べて足りない部分はないか確認し、送信。
・・の段階で、また手間取る。
スマホとマイナンバーカード使って送れるように今年からなったらしいんだけどさ
暗証番号と、なんだ?あの申請ナンバーみたいの。
カードを作られた方はおわかりと思いますが、
申請するときに自分で決めるんだよね。
あんなん忘れるって。
あれを書いた紙をちゃんとしておかないと、後でとっても困るって。
先週、今日の本番の前に、e-taxの申し込みだけしておこうと思ってやったら、
暗証番号が違うとか言われて、できなくて、
結局、主人がしまっておいてくれたあの紙を出してもらって、
やっと、今日無事に確定申告が終わったわけで。
主人がちゃんとしてる人でよかったと、本当に思いました。
私がだらしないので、主人に任せておけば安心。

なぜe-taxにしようかと思ったかというと、
一昨年までは、駅前で確定申告の受付してくれてたので、
仕事に行くときに提出すればよかったのですが、
昨年、税務署が移転して、綺麗な建物になったからか、
駅前の受付場所がなくなってしまい、
そして、当の税務署もかなり遠くなってしまってました。
歩いて行ける距離だから、近いっちゃ近いんだけれども。
まさかそんなことになっているなんて知らなかったので、
えらく困りました。
おまけに新しい場所は特定できるけど、行き方がわからん・・・
仕事にも間に合わない。
職場にはこれこれこういう理由で遅れますと連絡をいれ、
迷いに迷って、ようやく到着。
したのはいいけど、すごい人数が待ってる(;゜ロ゜)
とりあえず列の一番後ろに並ぶ。
そこへ案内係のお兄さん登場。
「2時間位かかりますよ。」
ええええええええええ~っ!
なんで?提出するだけでも?
その後、
「提出するだけの方はいらっしゃいますか~?」
「はいっ!」
しゅたっと手を挙げると、
「提出するだけ?」
「はいっ!」
「でしたらこちらへどうぞ。」
「ありがとうございますっ!」
にこにこのお兄さんの後についていき、提出してほっとしたものの、
「どうやって駅まで帰ればいいんだろう・・・」
来た道はわかるが、かなり遠回りして来てしまったので、駅までの最短がわからない。
そこへ、高校生(中学生?)の制服集団が歩いていて、
どうやら駅へ向かうご様子。
「あれに着いて行こう!」
そして、やっと駅まで帰れました。
「このままおうちに帰りたい・・・」
そう思いつつ、駅の改札をくぐり、電車に揺られ、
30分の遅刻で職場へ到着しました。

と、いうわけで

「来年は、絶対e-taxにする!」

心に固く誓いましたとさ。

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死について

ストレスにさらされると、胃が痛くなる。
昔からずっとそうで、
20代の頃、いつも胃が痛かった。
ある日、もしこれが胃癌で、もう手遅れだったらどうしよう。
まだ死にたくないと医者に行ったら、単なるストレスによる胃潰瘍だった。
先生は軽い胃潰瘍と言ってくれたが、今考えると『胃炎』程度だったと思う。
何週間か薬を飲み続けて、やっと治まった。


私には離婚歴があって、
最初の結婚をして何年か経った頃、
当時知り合った友人が、
「結婚もしたし、子供をつくる気がないなら、後は死ぬだけだね。」
と私に言った。
そう言われても、腹も立たず、その通りだなと思った。

その後、
当時のだんなの会社が倒産して、給料が何ヶ月もでなくなって、
会社に、だんなの名義で銀行から借りさせられていたお金も、
全部払わされることになって、
それでも、一緒に頑張っていこうと思っていたそんなときに、
だんなの実家のことで、私が言ったことに腹が立ったのか、
お前より、家族が大事だと言い放たれてしまった。
それからずっと、このままで一生が終わるのかと、考え続けた。
一番好きな人に、お前がいついなくなっても平気だと思われていて、
そんなので一生が終わるのか。
趣味や仕事で頑張れば、そう思われていようがいいじゃないか、
とも思ったが、それでも、家に帰ってくれば、
だんながいて、容赦なく『それ』を思い出させる。
友達の「後は死ぬだけだね。」は、全くその通りだよ、と思った。
あのときも、死ぬことは怖かったと思う。
どうなるかわからないし、魂が霧散して何もわからなくなってしまうなら
まだマシだろう。
でも、もし、死後の世界があって、今より条件が悪かったら。
そんな風に考えると、やっぱり死ぬのは怖かった。

それからすぐに、離婚して、元旦那から離れたので、
考え続けなくてもよくなった。


祖父母が亡くなる。
伯父や叔母が亡くなる。
それでも、死はあまり身近には感じられない。

しかし、父が悪性リンパ腫に罹ったとき、
『死』はぐっと近くなった。
いつ死んでもおかしくない状態だった。
その証拠に、父と同じ病の同室の方々は、父を除いて皆亡くなっている。
父は、もうかなりいい年だったのだが、
「死にたくない、絶対死なない、生き残ってやる。」
と思っていたそうだ。
私が、そのときの父と同じ歳だったら、
もう、いいや、と思うだろう。
その歳は、まだまだ先なのだが、今、「もう、いいや。」と思っている。


それ以上に、いつ死んでもおかしくないんだと思うようになったのは、
同い年の友人が二人、鬼籍に入ったときだった。

一人目の死を知ったのは、Yahoo!のニュースだった。
友人の名前があって、『死亡』とその後に続けて書いてあった。
その頃は、もうあまり付き合いもなくなっていたが、
彼とは、サークルも研究室も一緒だった。
大学を出た後も、研究室の皆と月一位で集まって食事をしていた。
仲のよかった友人はお通夜に行くと言った。
昼間は仕事があるから、と。
私はお通夜には行けないけれど、お葬式には行けるから、と
お葬式に行くことになった。
駅で、研究室やサークルの友人と待ち合わせをした。
久しぶりに会った友人達は、知り合いの顔を見ると、一瞬笑顔で手を挙げるが、
すぐに真顔に戻って、一様に黙っている。
冷たい雨の降る日だった。
帰りは、皆とは方向が逆なので、一人ホームで考えた。
昨日まで、いや、家族にしてみれば、朝まで一緒に過ごしていた人が、
突然帰ってこなくなったら、どんなに悲しいだろう、と。
その証拠に、焼香をして遺族に挨拶をしようと振り向いたとき、
目に入った友人のお母さんの目は真っ赤だった。

つい最近、写真をデジタル化する作業をしていたら、
色々な場面で皆と撮った彼の写真がでてきた。
彼の結婚式の二次会の写真もあった。
いつも笑顔だった。
この何年か後に、亡くなるとは思ってもいなかっただろう。
犯人の一人は、捕まっていないとあったが、今もそうなんだろうか。


二人目は、病で亡くなったようだ。
彼女も、ずっと会ってなかったし、付き合いもなかった。
なので、もう彼女からは、私は友人から外れていたと思う。
だが、私は彼女を友人だと思っている。
彼女のことは、色々なところで書いているので、
ここでは詳しく書かないことにする。


もう一人、あるサイトで出会った方がいる。
でも、詳しいことは、知らない。
どこの誰だか知らなくてもいい。
そういうサイトで出会ったので、それでいい。
その方も、突然亡くなった。
それを共通の友人に知らせたら、
「知らない方がよかった。」
と言われた。
どこの誰だか知らなくていいのだから、
生きてるか死んでるかなんて、知らなくていい。
生きて、どこかで過ごしているんだ、と思っていればいい、
ただ、このサイトに来なくなっただけなんだと、思うだけでいい。
そういうことだったんだろう。

私はどうなんだろう。
知って欲しいのか、知らないでいて欲しいのか。

『幸湖日記』という自作の小説の二人の主人公は、
どっちでもいいと思ってる。
でも、友達がお葬式に来てくれて、泣いてくれたと知って
「ありがとう。」
と言っている。
主人公中の主人公の幸湖さんは、
自分が死んだときに、大声で泣いてくれた飼い主のために
この世に遺っている。
そして、「泣いてくれる人なんて誰もいないよ。」という飼い主の言葉に、
胸を痛めている。
あれは、私の心の投影なので、本当はどうなんだろう。
知って欲しいのか、知らないでいて欲しいのか。

たぶん、知らなくてもいいと思ってる。
お葬式なんてしなくていいとも思ってる。
お墓もいらないし、覚えていて欲しいとも思わない。
主人には全部伝えてある。
散骨して欲しいと言ってある。


これから、この国はどうなるんだろう。
何も誇れる物がなくなって、世界に評価される物がなくなって、
だんだん貧乏になって、いいことが無くなって、
その中でどんどん歳をとって、何もできないまま生きていかなくてはいけなくなる。

私が父を嫌うように、父も私を嫌い、
嫌ってくれるなら、とことんまで嫌ってくれればいいのに、
どこか中途半端で、私がいつか謝ってくると思ってる。
父が大嫌いだと言って憚らない父の弟は、
私からみれば、とてもいいお父さんで、
自分のことより、子供の幸せを考えて行動していて、
叔父の奥さんは、乳癌の再発で亡くなってしまったが、
父は、叔父が叔母の診察を、連れて行く予定がたたないとキャンセルしてしまったから、
叔母の乳癌の再発の発見が遅くなって、亡くなったと信じているようだ。
それで、そんな自分勝手な奴は大嫌いだという。
ただ、父は母に乳癌がみつかったとき、何年も知ってて放っておいたそうだが、
それは更に酷いことではないだろうか。

そんなわけで、親の遺してくれるだろうものも、もう何も無く、
働くこともできなくなったら、
この先、どれだけ生きていかなければいけないのだろうと思うと、
このまま生きていても、仕方がないのではないかという思いが浮かんでくる。
自殺する気はないが、今、突然死んだとしても、後悔はなさそうだ。
主人と幸湖さんと暮らせたこの11年が幸せだったから、よかった。
ただ、それだけ。














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3回目のワクチンをうってきました その2

さて、続けて3回目接種後の副反応を書きたいと思います。

まずは、職場の人達。

ほとんどが熱は出なかった、そうです。
前回、38℃以上出た人も出なかった、そうです。
でも、やはり腕は皆、痛くなったとのこと。

1回目、2回目共に、熱が出て、
2回目は38℃以上出た人は、3回目も熱が出たそうです。
ただ、熱が上がってきそうになったときに、
ワクチン発熱時の推奨薬『カロナール』を飲んだため、
そんなに高くも、怠くもならなかったそうです。
ただ、カロナールの効果が切れると、上がってきたそうなので、
ひとえに『カロナール』さんのおかげで、助かった、と。

2回目、37.6℃だった人は、
3回目は、38℃以上になったそうです。
そして、頭がすごく痛かった、と。
『カロナール』、飲まなかったかもしれないなぁ。
そこを訊くの忘れた。

2回目に、40℃近く熱が上がって、
次の日も熱が下がらず、動けなかった人は、
3回目も38℃以上になって、
カロナールを飲んだので、下がったけど、
効果が切れると上がる。
それの繰り返しで2日間。
3日目は、すっきり爽やかになったそうです。

私の場合。
最悪だった・・・・
カロナール飲んでません。
2日目のお昼頃、37.6℃まで上がりましたが、
すぐに下がって、怠さなし。
腕は痛くて、やはり肘の上まで腫れる。
3回ともなったので、これは体質的なものでしょう。
下がったはずの熱が夜中に上がったようで(計ってないので何度かはわからない)
熱くて目が覚める。
そのまま寝たり起きたりを繰り返して、朝起きたときは、37℃。
なんとなく右眼の上辺りに違和感。
頭が痛くなる前兆です。
熱はすぐ下がりましたが、怠さと右眼の上に違和感が残る。
「今日、何もしないよ。
部屋とか汚いままでごめん。」
「ああ~ そんなの、いい、いい。」
と言いながら、主人が出掛ける。
あまり体を刺激しないように、お昼までいたにも関わらず、
37.4℃まで熱が上がる。
この後、仕事に行くので、仕方なく、カロナールを服用。
怠さと違和感は残るが、熱は下がったので職場へ向かう。
仕事をしている間、右眼上部の違和感は、だんだん痛みへとかわってくる。
なんだか、胃も痛い。
また熱も上がってきた感じ。
貧血起こしそうになる。
帰る1時間前に、いったん患者さんが落ち着いたので、許可をもらって帰る。
そのとき、先生にカロナールをいただいたので、服用。

次の日、熱も怠さもなく、しかし、右眼の上の違和感あり。
職場へ向かう。
仕事をしている間に、徐々に右眼の上の違和感が痛みにかわり、
だんだん酷くなる。
それに伴って、胃が痛くなり、気持ち悪くなる。
そして、また貧血が起きそうになる。
この間、熱はなし。
途中で、ブルフェンを服用。
痛み、なくならず。
「ブルフェンのんだから大丈夫。」
と自分に言い聞かせ、定時まで頑張る。
幸い、電車もバスも座れたので、
なんとか吐かずに、倒れずに家までたどり着けました。

家には、後ろ足の立たなくなってしまったコーギー幸湖さんがいるので、
ベッドに滑り込むわけにもいかず、
そのまま椅子に座っていたら、頭痛の方はだいぶ良くなりましたが、
胃の方は、食べ物を受け付けませんでした。
その次の日も、ほとんど食べ物を受け付けず、
主人がおじやを作ってくれて、それを食べました。
そして、今日に至ります。
まだ、胃が重いです。
その他の症状は、怪しいながら、出てないです。

土曜日、寒かったなぁ・・











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