忍者ブログ

昔日和-他愛もないこと-

思ったことや過去にあったことを、だらだらと書いてあります。どちらかというと、楽しいことではないです。近頃は精神安定のための、愚痴の捌け口になっております。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

母の死

幸湖さんに続くように、母が逝った。
4月2日のことだった。

職場で、4月から服装に規定が適用されて、黒のズボンとサンダルを買いに行った日のことだ。
帰って来ると、ポストにケアマネさんからのメッセージが入っていた。
このとき、父との関係は最悪だった。
かなり気を遣ってくださったのだろう。
すぐに電話をすると、
「今日、お母さんが入院するから、病院まで付き添って欲しい。」
と、言われた。

母は、8年位前から認知症を患っていた。
物忘れがかなりひどくなってはいたが、人の顔がわからなくなるほどではなかった。

認知症の始まりに気が付いたのは、母が私を途中まで送ってくれたときのことだった。
麓まで続く階段の上で、
「お母さん、ここでいいよ。」
と、手を振った。辺りは薄暗くなっていたので、そう言って母を帰したのだが。
母は、自分の家がわからなくなってしまったそうだ。
家を通り越して、かなり先まで行ってしまったと。
本人は、
「引っ越して来たばかりだったし、暗くなってたから、よくわからなくなっちゃって。」
と、言った。本人も、自分が認知症だなどと信じたくなかったのだろう。

 母を説得して認知症のことも診ている脳神経科に連れて行った。
医師は、認知症だとはっきりは言わなかったが、あのときそういう診断がついていたのだと思う。
血圧やコレステロールの薬と一緒に、認知症の症状を進まないようにする薬がでていた。
ただ。母はちゃんと服用していなかったようだ。
父は、誰かの面倒をみられる人じゃ無かった。
自分が薬を飲むときに、一緒に母の分も出してやって、水を用意すれば済むことを
一切やらなかった。
母の認知症の症状は、徐々にだが進んでいったようだ。

近頃になって、主人が言った。
「(亡くなる寸前は)お母さん、お茶が淹れられなくなってたもんね。」
そうなんだ。と思った。
料理が全然できなくなっていたのは、知っていた。
暮れに実家に行くと、必ず年越しそばがでるのだが、最後は主人が作っていた。
数年前から、ぬるいおそばがでてきたりしていたので、
お母さん、症状が進んだな、とは思っていた。
そのうちコロナになって、実家には行かないことにした。
うちは、二人とも医療関係の職に就いているため、
コロナに罹る可能性は、一般の人より高い。
それを幾度説明しても、父はなぜ自分がこんなに大変なのに、
「俺だけがこんな女のために嫌な思いをして、苦労しなくちゃいけないんだ。」
と、怒りを露わにする。
それでも、自分から行動を起こすことは一切無かったので、喧嘩になった。

母には申し訳なかったと思うが、あのときは本当に父と顔を合わせたくなかった。

母が逝ってしまった今、父はあの頃のことは嘘のようにおだやかな人になっている。
「お父さん、しっかりしてよ。私の実の親はもうお父さんしかいないんだからね。」
と、母が亡くなってすぐのとき、弱気になっている父に言った。
「うん。わかった。」
と頷く父が、一回り小さく見えた。








拍手[0回]

PR