幸湖さんに続くように、母が逝った。
4月2日のことだった。
職場で、4月から服装に規定が適用されて、黒のズボンとサンダルを買いに行った日のことだ。
帰って来ると、ポストにケアマネさんからのメッセージが入っていた。
このとき、父との関係は最悪だった。
かなり気を遣ってくださったのだろう。
すぐに電話をすると、
「今日、お母さんが入院するから、病院まで付き添って欲しい。」
と、言われた。
母は、8年位前から認知症を患っていた。
物忘れがかなりひどくなってはいたが、人の顔がわからなくなるほどではなかった。
認知症の始まりに気が付いたのは、母が私を途中まで送ってくれたときのことだった。
麓まで続く階段の上で、
「お母さん、ここでいいよ。」
と、手を振った。辺りは薄暗くなっていたので、そう言って母を帰したのだが。
母は、自分の家がわからなくなってしまったそうだ。
家を通り越して、かなり先まで行ってしまったと。
本人は、
「引っ越して来たばかりだったし、暗くなってたから、よくわからなくなっちゃって。」
と、言った。本人も、自分が認知症だなどと信じたくなかったのだろう。
母を説得して認知症のことも診ている脳神経科に連れて行った。
医師は、認知症だとはっきりは言わなかったが、あのときそういう診断がついていたのだと思う。
血圧やコレステロールの薬と一緒に、認知症の症状を進まないようにする薬がでていた。
ただ。母はちゃんと服用していなかったようだ。
父は、誰かの面倒をみられる人じゃ無かった。
自分が薬を飲むときに、一緒に母の分も出してやって、水を用意すれば済むことを
一切やらなかった。
母の認知症の症状は、徐々にだが進んでいったようだ。
近頃になって、主人が言った。
「(亡くなる寸前は)お母さん、お茶が淹れられなくなってたもんね。」
そうなんだ。と思った。
料理が全然できなくなっていたのは、知っていた。
暮れに実家に行くと、必ず年越しそばがでるのだが、最後は主人が作っていた。
数年前から、ぬるいおそばがでてきたりしていたので、
お母さん、症状が進んだな、とは思っていた。
そのうちコロナになって、実家には行かないことにした。
うちは、二人とも医療関係の職に就いているため、
コロナに罹る可能性は、一般の人より高い。
それを幾度説明しても、父はなぜ自分がこんなに大変なのに、
「俺だけがこんな女のために嫌な思いをして、苦労しなくちゃいけないんだ。」
と、怒りを露わにする。
それでも、自分から行動を起こすことは一切無かったので、喧嘩になった。
母には申し訳なかったと思うが、あのときは本当に父と顔を合わせたくなかった。
母が逝ってしまった今、父はあの頃のことは嘘のようにおだやかな人になっている。
「お父さん、しっかりしてよ。私の実の親はもうお父さんしかいないんだからね。」
と、母が亡くなってすぐのとき、弱気になっている父に言った。
「うん。わかった。」
と頷く父が、一回り小さく見えた。