母は認知症を患っていた。
だが、人の顔を忘れることはなかった。
話すこともしっかりしていたが、少しずつ症状は進んでいった。
尿漏れをするようになった。
最初は自分で気が付いて、下着を替えたり、濡らした所を掃除したり、
汚した下着を洗濯していたが、
そのうち、自分では漏らしていることに気が付けなくなったようだ。
プライドの高い人だったので、尿漏れパンツやオムツを持っていっても、
洗濯機の上の棚に隠すように乗せてしまい、はこうとしなかった。
実家は、玄関を入るなり、おしっこのニオイが充満していた。
父は自分が我慢すればと言いながら、いらいらして私を怒鳴るばかりだった。
それでも、どこかに相談するということは一切しておらず、
何度もそうした方がいいと言っても、何もしようとしなかった。
母を怒鳴り、責め、「こんな女!」「この馬鹿!」と罵っているだけ。
そして私に怒鳴り散らすだけ。
見かねて、役所の窓口の電話番号を調べて父に渡した。
父は、素直に電話をかけ、
それから、看護師さんやケアマネさんが来てくださるようになった。
父もしんどかったと思う。それでも、よく頑張ったと思う。
私の精神状態も最悪だった。
父には怒鳴られ、母は認知症で、
主人も精神的に不安定で、何かひっかかることを私が言うと、
目をつり上げて食ってかかるようになっていた。
幸湖さんは寝たきり。寝返りも打てない。
叫びたかった。
思い切り叫びたかった。
叫んだとしても、気が休まることはないし、
何の解決にもならないと思ったから、やらなかった。
頭の中は、いつもぱんぱんだった。
安らぎなんてなかった。
それでも、幸湖さんにはとても癒やされていた。
いてくれるだけでよかった。
しょっちゅうわふわふ言って、
トイレだーお水だー添い寝だー体の向きをかえろーと振り回されていたが、
それでも幸せだった。
「はいよっ!了解ですっ!」
と言いつつ、ご希望を叶えていた。
だけど、幸湖さんの気持ちを考えると、つらかった。
こんな状態が続くなら、
早く虹の橋を渡って、次に行った方がいいんじゃないかと、何度も思った。
「せめて、14歳までは一緒にいてね。」
幸湖さんには常々言っていた。
幸湖さんは、数えの14歳で逝ってしまった。
ちゃんと約束を守ってくれた。
幸湖さんがまだ元気なときから、
幸湖さんがいなくなった時のことを思ったことが、何度もあった。
常にあったと言っていい。
まさに、それが今、全くその通りになっている。
想像したときの思いも、状況も、全くその通りで、
これが、私がひきよせた結果なんだと、思い知った。
母が、認知症になるんじゃないかということも、昔から心配していた。
防止のサプリなんかを買って、母に渡していたが、
母が愛用することはなかった。
かくして、母は認知症になった。
これも、私がひきよせた結果なのかと、思った。
昔から、思い通りにならない人生だったら、
「ひきよせた」などとは思わないのだが。
大学の受験の時に、数学の問題集の問題を最初から最後までやったことがある。
私は数学が苦手だったのだが、薄い問題集を何度もやってごらんと言われて、
その通りにしていた。
いつやってもわからなくなる問題は必ずいくつか(多数 ^^;)ある。
その中に、すごく気になる証明問題があった。
ムキになって、その問題を毎日毎日解いた。
迷いなく完璧に解けるようになったとき、すごい達成感があった。
しかし、心の中では、
これだけができるようになって、何の得があるんだろう。
と、思った。
しかし、
本命の大学の受験の日、数学の問題を見て、えっ!と心の中で叫んでしまった。
一番最後の、明らかに一番多く点数が割り振られているだろう問題が、
まさに、ムキになって解きまくったあの問題だった。
答案に、その答えを書き終わったときに、受かるな、と思った。
勿論、その大学に4年間お世話になることができた。
あれが「ひきよせた」ということだったんだと、わかる。
だから、幸湖さんが変性性脊髄症かもしれない、とか、
母が認知症になるんじゃないか、とかを
心配したり、考えたりしてはいけなかったんだと、今更後悔してる。