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昔日和-他愛もないこと-

思ったことや過去にあったことを、だらだらと書いてあります。どちらかというと、楽しいことではないです。近頃は精神安定のための、愚痴の捌け口になっております。

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誰かの期待は重い

私は『期待を裏切る』人間らしい。
「こんな人だとは思わなかった」と失望されることが多々ある。

この頃は、誰かの期待に応えるなんてことをする必要はないと思っている。
今、期待に応えようと思えるのは主人だけだ。


以前は、親の期待に応えようと必死になっていた。
勉強ができて、責任感があって、真面目で、年下の従妹達の面倒を見て、
礼儀正しく、母の母、祖母に誉められる様な子供。
元々、母が祖母に疎まれているのだから、母の娘である私が誉められるわけがない。
それでも、小さい頃は祖母に可愛がられたと思う。
だが、祖母が一番可愛がっていた母の妹に娘が生まれたときから、
何かが違ってきていたと思う。
ずっと気がつかなかったし、何かが違ってきていたなどとは思ってもみなかったのだが。

私は、自分で自分のことを何でもできる子でもなく、
年下の従妹達を自分の感情を押し殺してまでちゃんと面倒をみられるような人間ではない。
ごくごく普通の、もしかしたら普通以下のできの子供だったのだ。
期待通りに振る舞っていたとしても、必ずボロがでる。

やがて、祖母に可愛がられているすぐ下の従妹と同じ事をしても、
私だけが怒られる、ということに気がつく。
そのときは、なぜそうなのかはわからなかったのだが。

時々、祖母は従妹と私に菓子パンを買ってくれた。
従妹の好きだった菓子パンは、田舎のお店にはいつも一つしかなかった。
そのパンは私も好きだったのだが、従妹にいつも譲っていた。
当時、あんこが苦手だった私は、仕方なくイチゴジャムのパンを選んでいた。
ある日、祖母がジャムパンと従妹の好きなパンを買ってきて、
「好きなのを食べなさい。」
と言った。
それで、たまには美味しいパンを食べたいと、それを持ったとき、
「それは貴女のではない。」
と言われた。
その言い方も、祖母の顔も気に入らなかった。
ずっと譲ってきたのだから、1度くらいはいいじゃないかと思った。
なぜそれがだめなのか。
結局、最後まで譲らなかった。
なぜ私だけいつも我慢しなくちゃいけないのかと、心の中で叫んでいた。
いつもパンを食べていた縁側に行って食べた。

祖母はそのことを母にこう告げた。
「××ちゃん(すぐ下の従妹)の好きなパンを、盗って隠れて食べた。」
母は、私に理由を訊くことなくひどく怒った。
祖母に誉められる様に礼儀正しくしているはずの私が、最低の評価を下されて、
泥棒とまで言われて、恥ずかしかったのだろう。
自分の娘を泥棒扱いされて、理由も訊かず娘を怒る母親。
そんな子じゃないと、祖母に言ってくれるはずもなく。

そんな人達の期待に応える意味などあるのか?
え?昔の私よ。

勝手に期待して、裏切られたと騒ぐ人間に、義理立てする必要があるのか?









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自己肯定感

小学生の頃いじめにあったことを前に書きました。
いじめた方は覚えてないか、昔の事だからと気楽にとらえているか、
そんなの大したことはではないと思っているということをよく見ますし、耳にします。
けれども、いじめられた方は絶対に忘れないし、絶対に許さないと思っている、と。

私も忘れてないですよ。
どんな風にいじめられたかもちゃんと覚えてます。
そのときのいじめた方の表情さえ思い出せますよ。

でも、私は許しちゃってるんですね。
中学、高校でやられたなら許せないと思いますが、小学生だったので、しょうがないのかな、と。

ただ、ひとつだけ。
小学校の5年生でしたか、
授業中に手に巻いたり、指ピストル?するように巻いたりして、輪ゴムを弄んでました。
机に指をたてたとき、反動で小指が離れ、
輪ゴムは見事には斜め前の友達の机に当たって落ちました。
びっくりした友達は後ろを振り返り、私が「ごめん!」ポーズをしているのを見ると、
にっこり笑って「びっくりした~」と声を出さずに口の形で言いました。
それを見て再び「ごめんね」ポーズをしたとき、
「先生、〇〇(私の名字)輪ゴムで遊んでる」
斜め後ろ(だったと思う)に座っていた男子の教室中に響き渡る声が。

余分に予習していったときに「馬鹿みたい!」と言い放った担任(おー!忘れてないねぇ)が、
「そうね。拾いなさい。」
席を立って輪ゴムを拾っている私に担任は言いました。
「授業中に遊んでじゃないわよ。」

声をあげた男子は、その担任のお気に入りでした。
彼がそんな風に言いつけるということはなかったので、驚きましたね。

ずっと忘れていたことですが、いじめのことを考えていたとき、一緒に思い出しました。
いじめということではなくて、授業中に遊んでる私が悪かったんですけれども(^0^;)

思い出したら、
なんで私だけそんな風に言いつけられたんですかねぇ?
ということが気になって考えてみました。
結論として、彼に嫌われてたんでしょうね。
同じ中学に行って、家も近かったのですが、
何か話したという記憶がないので、そうなんでしょう。


さて本題。

私は自己肯定感が低いです。
今は、主人が盛り立ててくれて、誉めてくれているので、なんとか浮上していられますが。

自己肯定感が低くなったのは、こんな風に生き辛いのは、
あんなことがあったせいだ、とか
あいつのせいだ、とか
何かのせいにしたくなるんです。

私には、許せず、恨んでいることがあります。
それがあるせいで、いじめられたことも、
前のだんなに義母と義弟と、私を天秤にかけた末に
「お前は家族じゃない」と否定されたことも、
今では簡単に許せてしまうくらいです。


元々、私は望まれて生まれてきたわけじゃないらしいですよ。
父が母を繋ぎ止めるための道具として必要だったのが私ですから。
生まれてきてしまったなら育てるしかない。
母はそう思ったそうです。
私が母のお腹にできてから、もう道具としての役割で決まりです。
生きていることによって、そのまま勝手に継続するわけです。
私を積極的に面倒見たり可愛がったりする必要は父にはないわけですよ。
父は、私より自分の事が大事ですよ。
それをどうのこうの言うつもりはないです。
人間は誰でも自分が大事です。
よくわかります。

母は、父と私の面倒を見ながら、働いていました。
父は、家のことは何もしません。
大変だったと思いますよ。
だから、母は私に面倒をかけられたくなかったでしょうね。
よって、自分の意に染まぬ事は全て反対され、禁止されました。
私は母と同一であり、根本は、母と同じ性質であると決めつけられたわけです。

それがはっきりわかったのは、
「それじゃあ、私がやりたいことができないから。」
と私が言うと、
「もうあきらめて子供にやらせなさい。」
と、母が言ったとき。

この人は、自分がやりたかったことを私に押しつけたんだ、と思いましたね。
私は母の中で同一なんだと。
だから、母がそうだから私もそうなんだと決めつけてたんだ、と。
行きたくも無い習字を習わされたのも、自分が字が上手い方がよかったから、
行きたくも無い塾に行かされたのも、自分がもっと勉強したかったから。

「・・・・何言ってんの?
子供と私は違うんだよ。
子供が経験したって、私が経験したことにはならないんだよ。」
(ちなみに、私に子供はいません(^0^;))
と、冷たく言ったにも関わらず、母は
「なんで?変なの。」
と言い放ちました。

『変』なのはお前だ!
こんな変な人間に育てられた私がまともなわけがない!
こんな変な人間に全てを禁止されて、
頭から否定されてそれに逆らえず育った私が自己肯定感が高いわけがない!
自分でさえ嫌いなこの私を、誰も必要としないのは当然だ!
天秤にかけられて、お前はいらんと言われるのは当然だ・・

今は、主人がいてくれるので、『自分』を保っていられますが。


母には弟妹が沢山いて、体の弱いお兄さんがいました。
家は貧しかったので、母とすぐ下の妹2人が働いて家を支え、
土地を買い山を買い畑を作りました。
勉強がしたかったと母はよく言ってました。
だから、私には沢山勉強させてあげるんだ、と。
確かに、このコロナの時でも仕事があって、困らないですよ。
それは感謝してますよ。

でも、
他には何もできませんでした。

自分が一つのことしか集中してできないから、と、他に何も許されませんでした。
特に恋愛は御法度でした。
そういえば、恋愛も母が嫌いなものでしたね。
男の人を好きになるなんてくだらない、と思っていたようです。

なのに、
最近になって、母の妹が遊びに来たときに、
叔母には2人娘がいて、好きな人ができると
「お母さん、明日デートなんだけどどれ着ていこう?」とか、
「クラスに格好いい子がいるんだけど。」とか、
3人でわやわや楽しんでいたという話をしてました。
そのとき母が
「私もあんたとそんな話したかったな。」

なにを-!!!!

驚きを通り越して怒りに変わりましたよ。
「何言ってんの?恋愛は御法度とか言っておいて。
そんな話できるわけないでしょう。」
どの口が言うんだ。


元が、飾っても大したことにはならないものですが、
お洒落も化粧も美容院に行って髪を綺麗にしたりもできませんでした。

そして、いつも言われるのは、
家には「お金が無い」。

2間の部屋には、台所があるのみ。
トイレは共同。
お風呂は銭湯。
洗濯機もエアコンも電話もない。
大きな冷蔵庫も置けないから、冷凍庫がない。
確かに、賃貸に住んでる同級生は沢山いました。
でも、お風呂のない部屋に住んでる子なんて、少なくとも友人にはいませんでした。


『許される』ことがなく、『誉められる』こともなく。
泣いただけで怒られるんですよ。
子供に泣くことを禁じるってどうかと思いますよ。
泣くと、怒られた上にぶたれたりすることもありました。
母は、自分はそんな事で泣いたりしないのに、なぜあんたは泣くのよ、
って気持ちだったんでしょうね。
そんなことで面倒をかけるな、と。

私は嘘をつくようになりました。
怒られないようにと嘘をつき、壊れないようにと自分を大きく見せる。
担任に言いつけた男子に嫌われてても仕方がない人間ですよ。
外見も平均以下ですし、更に服も持ってる物もお洒落じゃないですしね。
大学の時、あり合わせの服を着てたら、誰も何も言いませんでしたが、
趣味が悪いと思われていたようですよ。
買えないから、とは誰も思わなかったようです。

何にも優れた所がないので、多少勉強はできましたが、
自信になるものなんて何もないですよ。
おまけに私の育った時代は、『周りを蹴落としてでも上にあがれ!』でしたから、
自信は削れていくばかり。

帰りのHRは誰かの行動の批判の言いつけあいですよ。
あほらしいですよ。
「〇〇さんは、足で椅子を片付けてましたぁ!」とか
「〇〇くんは、机に座ってましたぁ!」とか。
これが何になるんですかね?
私にはわからないですね。

そんなでしたから、勉強することしか許してもらえなかった私が、
何かで自信を積み上げることができたら、奇跡ですよ。
嫌な人間に中途半端に磨きがかかっただけですよ。


なんだか疲れた。
その2に続く。



















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繋がり

母が乳癌になったと先週父から連絡がありました。
両親はかなり高齢です。
父は定年退職してから、悪性リンパ腫を始め、腎臓癌、前立腺癌、最近では大腸癌を患っており、
今は全て完治しております。
あまりにも『癌』になったと聞かされたせいか、母が乳癌と聞いても、イマイチ、ピンと来ません。
母が『癌』というのは一大事のはずなのですが。
父から「お母さん、調子悪いんだ。」と電話がきても、コロナのせいで様子を見に行くわけにもいかず。
うちは前回書いた通り、2人とも医療従事者です。
既に感染しているかもしれず、高齢の両親のところへ行くこともできません。

ある程度収束するまで、父に頑張ってもらわないといけません。

母は、治療すると言うだろうか。
手術ができる体力はないと思います。

母は、たぶんもう死んでもいいと思っている。
だから、血圧が高いと言われても薬を飲もうとしない。
もちろん、父が飲む様に一回分を袋に入れて、一度に飲める様にはしているので、
目の前に置かれれば飲むようですが。
もう、認知症も入ってきているので、忘れるのだろうと思います。

母は、幸せだったのだろうか。

自分のためじゃなく、
親のため、弟妹のため、父と私のために生きた人生。
幸せだったんでしょうかね。

確かに、誰かのために生きるのが楽しい人がいるのは知ってます。
それだけで幸せなのだと。
私には理解し辛いですが。
私は自分の人生を生きたいですよ。

子供の頃、お金がないからと色々我慢させられていました。
実は、ないはずのお金は母の弟妹のために使われていたなんてことを、
大人になってから知りました。
お風呂も洗濯機も電話もエアコンもない2間の部屋で我慢していたとき、
母の弟妹達は自分の家を、母に借りたお金で建てて、
悠々自適で自分の子供たちにはいっさい我慢をさせずに育てていたわけだ。

父にも、母にも、感謝はしている。
しかし、私は、母とは違う。
自分のために生きていきたい。
主人と自分と幸湖さんのために、時間を使いたい。


私の住んでいるこの辺りは、奥さんが先に亡くなっている家が多い。
先住の方々で残っている方は少なくなりましたが、
ご主人だけが住んでいる家がかなりあって、
引っ越して来てからも、ご主人が亡くなったのは1軒だけで、
後は3軒、奥さんの方が先に亡くなってます。

この辺の歴史からみても、さもありなん、と1人で納得はしておりますが。
私も主人より先に逝くんだろうな。


ここまでは前置きです。
そんなこの辺の歴史を思い出したところで、自分のご先祖様の歴史を調べてみました。
名字からなので、正確ではないとも思いましたが。

私の遠いご先祖様は、私が今住んでいる『この地』から出たそうです。
私は言うなれば、戻ってきたわけですね。
まぁ、名字と同じ地名があるくらいだから、そうなんでしょうね。
ずっと源氏系列だと思ってましたが、平氏系列だそうですよ。

主人の名字から調べたご先祖様は、源平の時代から敵対関係ですねー(^0^;)
戦国の世でも、関ヶ原でも、主人のご先祖様は『敵』でした。
味方なときがないです(^0^;)
すごいですねー(^0^;)
『現在』でよかったよε=( ̄。 ̄;)フゥ

父と母のご先祖様は、ずーっと味方です。
家紋も同じらしいので。


前に調べたときは、こんなに詳しくは調べられませんでした。
インターネット、普及進んだのね。





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新型コロナ

緊急事態宣言が出たにも関わらず、医療従事者である主人と私は仕事を休むことができません。
医師、看護師ではありませんが、感染リスクは高い、ですね。
今のところ、なんとか感染はしていないようです。


公共交通機関で職場まで行きます。
だいたい1時間位ですかね。
曜日によって出勤時間が違うのでなんとも言えませんが、
自粛要請になってから、空いてます。
必ず座れます。

ただ
第一線のはずですが、マスクないです。
自前です。
手に入らないので、何日も同じ物をしています。
ゴム手袋をしていると仕事にならないので、素手です。
防護服なんて着てなくて、自前の白衣着てます。
手洗い消毒はしておりますが、いつかは感染しそうだよなぁ・・

最前線のお医者さんや看護師さんとは感染リスクに雲泥の差があるとはいえ、
同じ医療従事者なのにマスクすら手に入らないってどうなんだろう。
消毒薬はだいぶ手に入る様になったようですが。

そんな状態だと、とっても主人には言えません。

緊急事態宣言が出て、初めて出勤する前の日、
正社員ではない私は、行かなくてもいいものと主人は思っていたようです。
いやいや、私が行かなかったら、誰かが私の代わりに出勤しなくちゃいけないのだから、
休むわけにはいかないでしょう。
仕事に就けば、それだけで感染のリスクが高くなることを、他の人にやらせるわけにはいかないよ。
そう言っても、主人は納得しません。
「電車に乗ることで、他の人よりリスクが高いのに、行くことは無い!」
それでも、行かなくちゃ。
かなり言い争いをして、しぶしぶながら出勤することを認めてもらいました。
うちのだんなは過保護だなぁ、と思っておりましたが、
職場の人達は皆、ご主人に同じ事を言われて反対され、
そして、私と同じように説得して出勤してました。


本当は1人でも外出しない方がいいのでしょうが、だからといって簡単にいかないのが、世の常です。
要領が悪いと言えばそれまでですが。


先週、職場に着くと、一緒に入っていた方がもう来ないと聞かされました。
家人に行かない方がいいと言われて、その方もそれに従ったのでしょう。
その方の分の仕事が私にかかってくることになったので、感染のリスクがあがりました。
益々、主人には言えませんし、休むことも辞めることもできなくなりました。
再び、要領が悪いって言ったら、それまでですが。

それでも、
自分で決めたこととはいえ、なんだかやりきれなくなりました。

行っても、給料があがるわけでもないし、
危険手当がもらえるわけでもないし、
誰に感謝されるわけでもないし、
何日も使ってる自前のマスクだし、
これで、感染したら、自分、馬鹿だなぁと思うんだろうな。
主人の言う通り、辞めて家で絵を描いてた方がずっとよかったなぁと。
今頃思ってしまいます。

報われることは何も無いのに、なぜそっちへ行くのだろうか。



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ずっとみていた風景

ずっと住んでいたのは大きな繁華街がある所だった。
高いビル、大きな百貨店、様々なお店。
夜になると、様々な色のネオンやビルの窓からこぼれる灯り。
流れる車のライト。
その繁華街の中に住んでいたわけではないが、家からは一際大きなビルが見えていた。

夏になると、たまにだが、潮の香りがした。
風に乗って、海の匂いがしていた。


何ヶ月か前に夢を見た。
どこかを目指して歩いているのだが、どこを目指しているのかわからない。
どこへ行きたいのかもわからない。
ただただ歩いていると、見慣れた道を歩いていることに気がついた。
ずっと住んでいた家に向かう道だった。
現実にはその家はまだそこにあるのだが、今は違う人が住んでいる。
夢の中で、家までの道を辿った。
そう。
ここを真っ直ぐ行って、信号を渡って、右へ曲がればその家はあるはず、だった。

家は、なかった・・・

家のあった辺りに、大きなマンションが建っていて、大きなエントランスになっていた。
悲しかった。
夢の中で、大声で泣いた。
そして自分の泣き声で目が覚めた。

特に何も思い入れはない。
強いて言うならば、あの都会の景色が懐かしい、ということだろうか。


ずっと見ていた夜景を描いてみるが、これじゃない感が半端なく。
あの景色はもう、記憶の中にしかない。
たぶん、写真も撮ってない。
近くの繁華街のビルから撮った写真はインターネットの中にいくつもあるが、
どれも記憶とはかけ離れている。

あの景色が好きだった。
でも、少し高いマンションができて、
私の好きな景色は、半分になってしまった。


あの景色は、もう二度と見られないだろう。




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