『planetarian~雪圏球(スノーグローブ)~』を主人と観た。
『planetarian』はどれも反則でしょう。
主人も私も、観ると泣いてしまう。
主人は、「(こんな泣かせるアニメは)造り方が汚い、ずるい。」と言いながら泣いている。
『planetarian』の舞台は、静岡の浜松の市街で、
主人には子供の頃から馴染みの地だ。
私は数回行っただけだが、すごく懐かしい感じがする。
なので、主人にしたら、更に感慨深いのではないかと思う。
その証拠に、見終わった後、彼の地が舞台のアニメを続けて観ていた。
この間は、「俺はどこへ行っても平気。」みたいなことを言ってたじゃん、
などと無粋なことは言わないことにしよう。
『それ』があるときは、当然のこととして過ごしていて、
なくなったときに、『それ』の存在が大きかったことに気付く。
他のことばかり気に掛けて、『今』が幸せなことに気が付かない。
なくなって初めて、そのときが幸せだったのだと気付く。
浜松は、私には、勿論主人にも、なんの関わりもない場所になってしまったので、
余計なんだろうと思う。
自分で納得して手放したものならば、何の未練も感慨もないが、
そうではない。
私はその地を離れてもうずいぶんになるが、
父がそれを手放したと聞いたとき、
もう、あの騒々しい所には一生住めないんだと思った。
Twitterにあげられたビルの夜景を見たとき、
都会の風景を見たとき、
帰りたいと心のどこかで思っていた。
もう二度と帰ることはできなくなったのだと、思い知らされた。
ここは、好きだ。
蜩の鳴き声も、ウグイスの鳴き声も、聞こえる。
だけど、長年見てきたネオンを、星の代わりに見て暮らしたいと思うこともある。
そう願う事は、最高の我が儘だろう。
そして、叶わなくていい。
今はここにいられて、主人と幸湖さんと一緒にいられることが幸せだと思うから。
それを忘れてはいけない。
だから、叶わなくていい。