絆って何だろう。
親子の絆、友情、人の輪。
昔、この人とは、一生一緒にいて、
一緒に歳を重ねていくだろうと思っていた人との絆は
もうない。
愛されてたんだろうと思う。
必要とされてたんだろうと思う。
でも、今は本当にそうだったのか、わからない。
私じゃなくてもよかったんじゃないかとさえ思う。
母が乳癌になって、その前から、少し痴呆もあって、
家のことが昔ほど、いや、ほとんどこなせなくなった。
父は、そんな母に対し、
「あんな女!」
と言う。
朝も起きてこず、いつまでも寝てる。
薬も言っても飲まない。
ご飯の支度もできないし、掃除もしない。
父は、母がそうなる前は、家のことは何もやってこなかった。
定年になってからも、何一つ自分でやろうとせず、
テレビの前に座ったきりで、事足りた。
父が悪性リンパ腫になったとき、
腎癌になったとき、
前立腺癌になったとき、
母は、愚痴一つ言わず、毎日病院に通った。
そうして、父を励まし、ドクターや看護師さんに気を遣い、
もくもくと。
父はどうだろう。
そんなことはすっかり忘れてしまったようだ。
自分が母にさせてきたこと、してもらったことは
全てなかったことになっている。
あのとき、こうだったから、こうしてくれたから、
今度は自分が、などとこれっぽっちも思っていない。
何で、自分がこんな事をしなくちゃいけないんだ。
何で、毎日毎日掃除して、お総菜を買いに行って、
毎日毎日、この俺が!
そう思っている。
役に立たなくなったら、もういらない。
夫婦の絆はどこへやら。
私が思うに、最初からなかったんじゃないか。
『夫と妻』、というより、『主と隷』。
だから、「あんな女!」と切り捨てるように言えるのだろう。
母は、そんな一生でよかったのだろうか。
「自分は、きかん気が強いから。」
と、よく言っていた。
確かに、どちらかというと怠け者の父を上手く働かせて、
今、困らない程度にはなってはいる。
でも、
「お父さんが、」「おばあちゃんが、」「あんたが、」
という言葉を母からよく聞いた。
「お父さんが嫌な顔するから。」
「おばあちゃんが、そう言ってるから。」
主語は皆そうだった。
肝心の「私」はどこへ行ったのだ?
きかん気が強い人が、「私」を表に出さないはずがないと思うが。
たぶん、楽だったんだろう。
母にとって、誰かのせいにしておけば、誰かが決めたことに従っていれば、
楽だったんだと思う。
可哀想だと思うが、自業自得とも思う。
両親を見ていて、自分は違う、と言うつもりはない。
ずっと友達でいよう。
と言っていた仲のいい友達は、皆いなくなった。
特に、私の様な人間には、いつまでも一緒にいてくれる『人』は少ない。
「友達がいるから、結婚しようと思わない。」
と、言う人がいる。
羨ましいと思う。
そんなに強い友情を、ずっと持ち続けられることが、
それを信じていけることが、
そういう人が傍にいることが、すごく羨ましい。
私の経験では、
女同士は、子供ができると、疎遠になってしまう。
私には子供はいない。
結婚して、子供が産まれて、育てて、の道からはずれたので、
その道を歩いている友達とは疎遠になった。
大切なものが違ってしまえば、話題もなくなる。
なら、切り捨てるしかない。
そうやって、皆、いなくなった。
それこそ、自業自得だろう。
友人達が悪いわけではない。
私の方に、非があるのだから。
子供をつくらなかったということが非というのではなく、
性格的に、非があるということだ。
しかし、それでも、
こちらを見てくれる友人はいる。
彼女とは、まだ繋がっている。
そういう『人』は、そんなにはいない。
今、私の傍(物理的だけではなく)にいてくれる数少ない『人』達を
大切にしていこうと思う。
『絆』という言葉は、私にはあまり響いてこないのだが。